468鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
そのころ、京都朝廷から、(佐賀藩主鍋島)閑叟と新藩主直大に、
上京を促す書面が来ていた。その一つは、王政復古の大号令の
直前に、京都朝廷の伝奏から十二月一日付けで、佐賀藩主あてに、
「来辰(慶応四年)正月より三月迄京都詰御警衛上京仰付けらる」とあり、
また十二月十九日付で、新政府の参与から、今度は前藩主閑叟あてに、
今般御改正一新に付き、広く天下の人材御登用あらせられ、(中略)、
早々登京致すべし御沙汰候事」という伝達があった。

佐賀藩はとりあえず、長崎の深堀邑主であった鍋島孫六郎に、
六百人の藩兵をつけて船で京に向かわせた。
それと同時に長崎防衛の件で、朝廷に御伺書を出し、鍋島孫六郎には、
お伺書の回答が来るまで、筑前の黒崎港で待機するように
命じた。閑叟の脳裏には、いまだに孝明天皇より下された
「長崎防衛に専念すべし」というお言葉が消えずにあった。
しかしその逡巡が、佐賀藩の出遅れに拍車をかけた。

   参考書 「江藤新平と明治維新」 鈴木鶴子 朝日新聞社
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