日本大学 総合掲示板

今日16916PV 昨日16260PV
現在:43人閲覧中
✏ 投稿🔍 検索📷 画像🔽 下
NEW地元・出身地・テレビ番組を掲示板で語ろう!📣
478入京 
山田市之允入京し、京都御所を拝して、かつて蛤御門に敗戦した往時を
思い浮かべて涙潜然、すなわち賦して曰く。

三軍來踞承明門
要表真誠訴宿冤
鳳詔方降紫宸殿
壮夫揮涙拝天恩


 読み下し

三軍來踞す承明門。
要を表して真誠宿冤を訴う。
鳳詔まさに降る紫宸殿。
壮夫涙を揮(ふる)って天恩を拝す。

日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 【レス数46】
https://www.kyodemo.net/sdemo/r/jsaloon/1506120669/l50n
編集削除

477入京 
元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。

(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。
編集削除

476「将発上國」 
長州軍の東征先鋒部隊の諸隊総指揮は山田市之允。

慶応三年11月14日、藩主毛利敬親は山田市之允・片野十郎(奇兵隊参謀)の
両名に対し、上京の親書を与える。既に先立つ9月16日には長薩東上約条が結ばれ
10月14日には討幕の密勅が、長州毛利・薩摩島津家に下された。
11月17日には
薩摩藩主島津茂久が軍船に三千人の兵士を満載して
三田尻に入港。西郷吉之助、黒田了介らと出兵の細部にわたって打ち合わせ
21日、長州藩に先立って三田尻から上京の途についた。
編集削除

475「将発上國」 
用兵 独り慕う ナポレオン
倒幕 「将発上國」
薩摩長州藩に倒幕の密勅が降り、まさに倒幕のために三田尻港を京に
向けて出航する寸前に書かれたと思われる慶應三年の山田顕義の
漢詩があります。

  建業唯希話聖東
  用兵独慕拿波翁
  半宵提剣看寒月
  千古興亡両眼中

  注 ワシントンはアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン
    イギリスとの独立運動を指導しました。「話聖東」

    「 拿波翁」ナポレオン・ポナパルト(1769^^1821)
    「上國」上國。京都、大阪。
    「半宵」夜中。夜半。
    「寒月」冷たく光る真冬の月。
編集削除

474鳥羽伏見の戦い前夜 
「勤皇の大義」 3
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。


慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。

●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。

ちっちゃな身体にちっちゃな希み。
蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。
編集削除

473鳥羽伏見の戦い前夜 
「勤皇の大義」 2

 お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
 愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
 残念の余り一筆留め置き候。

 今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
 候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
 千万拝み祈り奉り候。

 何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
 御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
                        匆々不一
     慶応三年九月二十五日   山田市之允
 木戸準一郎(孝允)様
編集削除

472鳥羽伏見の戦い前夜 
「勤皇の大義」 1

慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。


諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。

「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。
編集削除

471鳥羽伏見の戦い前夜 
鳥羽伏見の戦い前夜
 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。

 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
 山田市之允に授けた。
編集削除

470大抜擢!!23歳のチビ小僧を先鋒隊のトップに抜擢。 
山田市之允は高杉晋作の遺言、師匠の大村益次郎の推薦で
先鋒隊の諸隊駆け引き役(総参謀)に抜擢されるんだがな。
市ィーの抜擢は長州藩家老村田清風、山田亦介、村田次郎三郎らを輩出した
名門山田家の出身だという事もあったかもしれない。市ィーの
親父も海軍頭だからな。

山縣狂介(有朋)の山田顯義への遺恨はこの頃、生まれたと思うね。
山縣狂介の身分の差から生まれた嫉妬・遺恨は
明治軍隊の主導権を巡って数年後、爆発します。

大村益次郎は軍隊の出し入れのうまさで山田市之允を
抜擢したんだが、山縣有朋は身分の違いによる差別と取ったんだね。
(高杉晋作は育ちの違いから、山田市を選んだ可能性も多少あります?)

結局、奇兵隊隊長山縣有朋は涙目で、整式隊(藩の上士で選ばれています)隊長
山田市之允の出兵を見送ります。
編集削除

469鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
佐賀藩がもたもたもたもたしている間に 薩長軍は準備完了。
大村益次郎は 長州藩単独での出兵には反対。
薩長が手を組んだことで 勝ち目が出て来たと判断しています。

今じゃぁ忘れられた存在なんだが、鳥羽伏見の戦いのときの
主役の一人は山田市。薩摩藩が西郷隆盛、長州軍は若きエース
山田市之允です。

今まで山田市の側からみた鳥羽伏見の戦い前後の紹介は
皆無に近いので紹介していこう。

日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 【レス数46】
https://www.kyodemo.net/sdemo/r/jsaloon/1506120669/l50n
編集削除

468鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
そのころ、京都朝廷から、(佐賀藩主鍋島)閑叟と新藩主直大に、
上京を促す書面が来ていた。その一つは、王政復古の大号令の
直前に、京都朝廷の伝奏から十二月一日付けで、佐賀藩主あてに、
「来辰(慶応四年)正月より三月迄京都詰御警衛上京仰付けらる」とあり、
また十二月十九日付で、新政府の参与から、今度は前藩主閑叟あてに、
今般御改正一新に付き、広く天下の人材御登用あらせられ、(中略)、
早々登京致すべし御沙汰候事」という伝達があった。

佐賀藩はとりあえず、長崎の深堀邑主であった鍋島孫六郎に、
六百人の藩兵をつけて船で京に向かわせた。
それと同時に長崎防衛の件で、朝廷に御伺書を出し、鍋島孫六郎には、
お伺書の回答が来るまで、筑前の黒崎港で待機するように
命じた。閑叟の脳裏には、いまだに孝明天皇より下された
「長崎防衛に専念すべし」というお言葉が消えずにあった。
しかしその逡巡が、佐賀藩の出遅れに拍車をかけた。

   参考書 「江藤新平と明治維新」 鈴木鶴子 朝日新聞社
編集削除

467鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
討幕派も緒戦からの勝利を確信していたわけでもないのだよ。
「一発前夜、玉印御微行」(鳥羽伏見の戦いの前に天皇は秘かに京都を脱出して山陰道を
長州に下る)の手筈になっていたのだよ。京都御所の付近には長州軍2中隊が
待機したのだよ。諸隊駆け引き役の山田市之允は負けることも想定、
桂小五郎に「再会期しがたく・・」と書き残すのだよ。

案ずるより安しで勝負は薩長軍の圧勝に終わるんだがな。困るのは佐賀藩よ。
京伏見には一兵もいないんだからな。出遅れるんだな。
日和見の土佐藩は2日目から薩長軍に加わることで官軍になるんだがな。
肝心の佐賀藩は江藤新平も大隈重信も戦には間に合わなかった。

江藤新平は得意の喋くりで官軍のおこぼれは戴くんだけどな。
結局上手くいかず「第2の維新」を起こして首を
刈られちゃった。
編集削除

466鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
江藤新平も気の毒と言えば
これほど気の毒な人もいないんだな。

鳥羽伏見の戦いは慶応四年(戊辰)正月三日に
始まるんだがな。実は前年の十二月の終わりごろ、
佐賀藩士江藤新平は兵庫に着いているんだよな。京に急ぎ上京するものの
鳥羽伏見の戦いの為に足止めを食らっちゃうのだよ。

そのため京都に入るのが一月七日か八日と遅れ
鳥羽伏見の戦いに誰一人、遂に間に合わなかった。

この遅れが後々、江藤新平の佐賀の乱、新政府の早稲田大学への
不信に繋がったと断言できるだけに、土壇場での
佐賀藩主鍋島閑叟の踏ん切りの悪さには、佐賀県人なら
溜息の一つも吐きたくなるかもなぁ。
編集削除

465鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
長州藩士山田市之允には抜きがたい憤懣があるのだよ。
まぁ長州藩出身者には共通の憤懣かな。

佐賀藩であれば鳥羽伏見の戦いにも参列しないで
勤王の顔をするな。血を一滴も流していないで
何の勤王ぞ!
土佐藩であれば1日目は加わらず、2日目から鳥羽伏見の戦いに
加わった土佐藩は信用がならないという事でしょう。

佐賀藩は一滴の血も勤王討幕の為に
使っていないからね。新政府でデカい面をする
江藤新平、大隈重信が要注意人物として
マークされたのはまぁ仕方のないことだよね。
編集削除

464鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 
薩摩長州の二藩が「皇室を挟んで覇者の業を成さんと欲する」
ことを恐れ
「事急なり、一日遅れれば天下一日の危難を加えん。
嗚呼、暁鐘已に響けり。願わくば老公速やかに臣が言を容れ、臣等をして共に
旭日の耀々たるを見るの栄を得さしめよ」と必死の形相で迫った。

しかし佐賀藩主鍋島閑叟は、大隈重信の必死の力説に
「委細きき置く」に留めた。大隈得意の弁舌も功を奏しなかったのである。
「事急なり、一日遅れれば天下一日の危難を加えん」の説明通り、
佐賀藩兵の出陣の遅れが後々、尾を引くことになりまする。
編集削除


キャンセル
違反報告