日本大学 総合掲示板
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478入京 2026/07/28 18:32 (ID:MTJiMTB)
477入京 2026/07/28 18:25 (ID:MTJiMTB)
元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。
(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。
476「将発上國」 2026/07/28 18:23 (ID:MTJiMTB)
長州軍の東征先鋒部隊の諸隊総指揮は山田市之允。
慶応三年11月14日、藩主毛利敬親は山田市之允・片野十郎(奇兵隊参謀)の
両名に対し、上京の親書を与える。既に先立つ9月16日には長薩東上約条が結ばれ
10月14日には討幕の密勅が、長州毛利・薩摩島津家に下された。
11月17日には
薩摩藩主島津茂久が軍船に三千人の兵士を満載して
三田尻に入港。西郷吉之助、黒田了介らと出兵の細部にわたって打ち合わせ
21日、長州藩に先立って三田尻から上京の途についた。
475「将発上國」 2026/07/28 18:19 (ID:MTJiMTB)
用兵 独り慕う ナポレオン
倒幕 「将発上國」
薩摩長州藩に倒幕の密勅が降り、まさに倒幕のために三田尻港を京に
向けて出航する寸前に書かれたと思われる慶應三年の山田顕義の
漢詩があります。
建業唯希話聖東
用兵独慕拿波翁
半宵提剣看寒月
千古興亡両眼中
注 ワシントンはアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン
イギリスとの独立運動を指導しました。「話聖東」
「 拿波翁」ナポレオン・ポナパルト(1769^^1821)
「上國」上國。京都、大阪。
「半宵」夜中。夜半。
「寒月」冷たく光る真冬の月。
474鳥羽伏見の戦い前夜 2026/07/28 18:11 (ID:MTJiMTB)
「勤皇の大義」 3
発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。
●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。
ちっちゃな身体にちっちゃな希み。
蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。
473鳥羽伏見の戦い前夜 2026/07/28 18:10 (ID:MTJiMTB)
「勤皇の大義」 2
お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
残念の余り一筆留め置き候。
今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
千万拝み祈り奉り候。
何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
匆々不一
慶応三年九月二十五日 山田市之允
木戸準一郎(孝允)様
472鳥羽伏見の戦い前夜 2026/07/28 18:08 (ID:MTJiMTB)
「勤皇の大義」 1
慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。
諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。
「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。
471鳥羽伏見の戦い前夜 2026/07/28 18:02 (ID:MTJiMTB)
鳥羽伏見の戦い前夜
長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。
慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
山田市之允に授けた。
470大抜擢!!23歳のチビ小僧を先鋒隊のトップに抜擢。 2026/07/28 17:58 (ID:MTJiMTB)
山田市之允は高杉晋作の遺言、師匠の大村益次郎の推薦で
先鋒隊の諸隊駆け引き役(総参謀)に抜擢されるんだがな。
市ィーの抜擢は長州藩家老村田清風、山田亦介、村田次郎三郎らを輩出した
名門山田家の出身だという事もあったかもしれない。市ィーの
親父も海軍頭だからな。
山縣狂介(有朋)の山田顯義への遺恨はこの頃、生まれたと思うね。
山縣狂介の身分の差から生まれた嫉妬・遺恨は
明治軍隊の主導権を巡って数年後、爆発します。
大村益次郎は軍隊の出し入れのうまさで山田市之允を
抜擢したんだが、山縣有朋は身分の違いによる差別と取ったんだね。
(高杉晋作は育ちの違いから、山田市を選んだ可能性も多少あります?)
結局、奇兵隊隊長山縣有朋は涙目で、整式隊(藩の上士で選ばれています)隊長
山田市之允の出兵を見送ります。
469鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:55 (ID:MTJiMTB)
佐賀藩がもたもたもたもたしている間に 薩長軍は準備完了。
大村益次郎は 長州藩単独での出兵には反対。
薩長が手を組んだことで 勝ち目が出て来たと判断しています。
今じゃぁ忘れられた存在なんだが、鳥羽伏見の戦いのときの
主役の一人は山田市。薩摩藩が西郷隆盛、長州軍は若きエース
山田市之允です。
今まで山田市の側からみた鳥羽伏見の戦い前後の紹介は
皆無に近いので紹介していこう。
日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 【レス数46】
https://www.kyodemo.net/sdemo/r/jsaloon/1506120669/l50n
468鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:51 (ID:MTJiMTB)
そのころ、京都朝廷から、(佐賀藩主鍋島)閑叟と新藩主直大に、
上京を促す書面が来ていた。その一つは、王政復古の大号令の
直前に、京都朝廷の伝奏から十二月一日付けで、佐賀藩主あてに、
「来辰(慶応四年)正月より三月迄京都詰御警衛上京仰付けらる」とあり、
また十二月十九日付で、新政府の参与から、今度は前藩主閑叟あてに、
今般御改正一新に付き、広く天下の人材御登用あらせられ、(中略)、
早々登京致すべし御沙汰候事」という伝達があった。
佐賀藩はとりあえず、長崎の深堀邑主であった鍋島孫六郎に、
六百人の藩兵をつけて船で京に向かわせた。
それと同時に長崎防衛の件で、朝廷に御伺書を出し、鍋島孫六郎には、
お伺書の回答が来るまで、筑前の黒崎港で待機するように
命じた。閑叟の脳裏には、いまだに孝明天皇より下された
「長崎防衛に専念すべし」というお言葉が消えずにあった。
しかしその逡巡が、佐賀藩の出遅れに拍車をかけた。
参考書 「江藤新平と明治維新」 鈴木鶴子 朝日新聞社
467鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:48 (ID:MTJiMTB)
討幕派も緒戦からの勝利を確信していたわけでもないのだよ。
「一発前夜、玉印御微行」(鳥羽伏見の戦いの前に天皇は秘かに京都を脱出して山陰道を
長州に下る)の手筈になっていたのだよ。京都御所の付近には長州軍2中隊が
待機したのだよ。諸隊駆け引き役の山田市之允は負けることも想定、
桂小五郎に「再会期しがたく・・」と書き残すのだよ。
案ずるより安しで勝負は薩長軍の圧勝に終わるんだがな。困るのは佐賀藩よ。
京伏見には一兵もいないんだからな。出遅れるんだな。
日和見の土佐藩は2日目から薩長軍に加わることで官軍になるんだがな。
肝心の佐賀藩は江藤新平も大隈重信も戦には間に合わなかった。
江藤新平は得意の喋くりで官軍のおこぼれは戴くんだけどな。
結局上手くいかず「第2の維新」を起こして首を
刈られちゃった。
466鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:45 (ID:MTJiMTB)
江藤新平も気の毒と言えば
これほど気の毒な人もいないんだな。
鳥羽伏見の戦いは慶応四年(戊辰)正月三日に
始まるんだがな。実は前年の十二月の終わりごろ、
佐賀藩士江藤新平は兵庫に着いているんだよな。京に急ぎ上京するものの
鳥羽伏見の戦いの為に足止めを食らっちゃうのだよ。
そのため京都に入るのが一月七日か八日と遅れ
鳥羽伏見の戦いに誰一人、遂に間に合わなかった。
この遅れが後々、江藤新平の佐賀の乱、新政府の早稲田大学への
不信に繋がったと断言できるだけに、土壇場での
佐賀藩主鍋島閑叟の踏ん切りの悪さには、佐賀県人なら
溜息の一つも吐きたくなるかもなぁ。
465鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:44 (ID:MTJiMTB)
長州藩士山田市之允には抜きがたい憤懣があるのだよ。
まぁ長州藩出身者には共通の憤懣かな。
佐賀藩であれば鳥羽伏見の戦いにも参列しないで
勤王の顔をするな。血を一滴も流していないで
何の勤王ぞ!
土佐藩であれば1日目は加わらず、2日目から鳥羽伏見の戦いに
加わった土佐藩は信用がならないという事でしょう。
佐賀藩は一滴の血も勤王討幕の為に
使っていないからね。新政府でデカい面をする
江藤新平、大隈重信が要注意人物として
マークされたのはまぁ仕方のないことだよね。
464鳥羽伏見の戦いに佐賀藩士遂に一人も加われず。 2026/07/28 17:40 (ID:MTJiMTB)
薩摩長州の二藩が「皇室を挟んで覇者の業を成さんと欲する」
ことを恐れ
「事急なり、一日遅れれば天下一日の危難を加えん。
嗚呼、暁鐘已に響けり。願わくば老公速やかに臣が言を容れ、臣等をして共に
旭日の耀々たるを見るの栄を得さしめよ」と必死の形相で迫った。
しかし佐賀藩主鍋島閑叟は、大隈重信の必死の力説に
「委細きき置く」に留めた。大隈得意の弁舌も功を奏しなかったのである。
「事急なり、一日遅れれば天下一日の危難を加えん」の説明通り、
佐賀藩兵の出陣の遅れが後々、尾を引くことになりまする。